メゾンカイザーという名前はご存知だろうか。
パリ発のブーランジェリーであり、日本には丸の内や日本橋などに店舗がある。
忙しい社会人生活のなか、メゾンカイザーでクロワッサンを買うのが私のささやかな楽しみであった。
高層ビルと歴史ある建物が共存する街・日本橋

新卒で就職した会社では、クライアントの事務所まで出向いて業務を行うことが多かった。
都内のいろいろな場所を訪ねたが、とくに丸の内・銀座・日本橋あたりへはよく行った。
スマートで都会的な丸の内も華やかな銀座も心躍るものがあったが、私は日本橋が好きだった。
通りには歴史を感じさせる石造りのデパート、老舗本屋の丸善、昔ながらの海苔屋や和菓子屋が立ち並んでおり、サラリーマンに混じってお年寄りが歩いている。
日本橋と日本橋室町をつなぐアーチ橋からは潮の匂いがすることもあった。
江戸の趣を残した風景。
都会でありながらどこか懐かしく、仕事で張り詰めた心を和ませてくれた。
深夜まで働く日々。「限界」と、身体と心が悲鳴をあげた

その頃の私は、毎日をただ消費するように生きていた。
憧れて就いた仕事は想像よりも厳しく、期日に追われ重圧に耐え、その日その日を無事にやり過ごすことで精一杯だった。
多額の資金が動く業務内容は私の精神を少しずつすり減らしていた。
土日だけを楽しみに過ごす毎日。
平日の楽しみは同僚とのランチと、たまのメゾンカイザーであった。
そんなある日、突然、目が見えなくなった。
正確には、見えているのだが、光を見るとまぶしくて痛くて目を開けていられない。
さすがにおかしいと思い、上司に了解をとって眼科へ駆け込んだ。
ついた診断は「角膜潰瘍」。
医師には「失明したくなければ今すぐ帰って休みなさい。」と言われた。
そのとき、「ああ、もう無理だ。もう辞めよう。」と心が叫んだ。
頑張った思い出はメゾンカイザーとともに

しばらくして目の完治を確認できると、猛勉強が始まった。
異業種へ転職しようと考えたので、まずは資格をとらなくてはならない。
一人暮らしの家賃を支払うために仕事は続けていたので、余暇の時間はほぼなくなった。
試験勉強のかたわら、メゾンカイザーのクロワッサンがご褒美として胃袋にいくつも収まっていった。
一年後、転職活動が実り、念願の採用通知が届いた。
ご褒美はもちろんメゾンカイザーのクロワッサン。
日本橋高島屋で購入した。
転職先は遠くになるから、日本橋に来ることもあまりなくなるなぁ。
橋から川を眺めながらクロワッサンをちぎって頬張ってみた。
達成感と、ほっとした気持ちと、ほんの少しのさみしさと。
いろいろな感情がごちゃまぜになり、緑色の川面を滲んで見せた。
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