二十代の終わり、私は新しい住まいに移った。
昨日までの、無為で愚かで浪費だらけの日々に別れを告げて。
人間関係、仕事、所有物は最低限度に整理して再出発した!
新しいアジトは港区白金のワンルームマンション

不動産屋の営業マンに案内されたのは、地下鉄広尾駅から歩いて7、8分の川沿いに立つ新築の白い建物だった。
住所は白金になる。
見せられた部屋は、最上階の4F、角部屋だ。
ブルーのドアを開けると小さなキッチンと反対側に浴室とトイレ。
そして、奥には、8畳ほどの洋間があり、ゆったりとしたベランダ付き。
近くを首都高速が走っているが、周囲に高い建物はなく、頭上には初秋の澄んだ空がいっぱいに広がっていた。
「ここにします!」
私は即決した。
エキゾチックな街並みを歩く!

アジトに落ち着いた日から、私の趣味は散策になった。
部屋から目黒方向に歩けば、銀杏並木で有名なプラチナ通りがあり、坂道には、豪邸や高級宝飾店、レストランなどが立ち並ぶ。
白金ならではのゴージャス感もいいが、反対側の南麻布方面も興味深い。
部屋を出て車の行き交う大通りを渡り、フランス大使館を行き過ぎてしばらく行った先には、緑に包まれた有栖川公園がある。
公園の側の外国人向けのマーケットで、珍しいチーズやワインを物色したり、バラの花が香る花屋さんを横目に見ながら、アイスクリームを食べるのは楽しいひと時だ。
また、私がよく利用する地下鉄、広尾駅から天現寺方向に続くプラタナスの舗道。
そこには、レンガ造りのマーケット、本屋、カフェ、洋家具屋が立ち並んでいる。
これまで、いろんな町に住んできたが、これほど気持ちにぴったりくる所はなかった。
部屋に響く高速道路の音も気になるほどではない。
眠れない夜には、海のさざ波のようにも聞こえて孤独を癒してくれる。
我の中の揺るぎない王国

引っ越しが済んで落ち着いた頃、私は大きな買い物をした。
欲しくてたまらなかったピアノ。渋谷の宮益坂でアップライトの黒いピアノを買った。
ローンで、およそ60万円也。
これから、しっかり仕事をして支払っていかなければならない。
私の仕事は歌を歌うことだ。
以前は、レコード会社やプロダクションに所属して、あちこちせわしなく動いて仕事していたが、そんな生活にはもうおさらばした。
今は、銀座と赤坂にある、歌と生演奏の店で歌っている。
「ジャンルはなに?」とよく聞かれるが、私は、良いと思ったものを何でも歌う。
映画音楽、スタンダードジャズ、タンゴ、フォルクローレなど。
今の仕事場では、それが出来るからギャラがまあまあでも続けている。
いつか、自分の城をもって自由に弾き語りをやりたい。
夢は、我の中のゆるぎない王国!
恋人は持たない。自由に気ままに生きる

二十代で男性と付き合って分かったことは、継続してやっていける相手に出会うのは、難しいということだった。
この先も期待できない。
ある文豪は、恋愛論の中で述べている。
男女が惹かれ合うときめきの期間は、生物学的に言っておよそ3年ぐらいのものであると。
そうなのだ。
男と女は、一時、惹かれ合って愛し合ったとしても、情熱的でいられるのは短い。
色あせた恋なんて、宝石がただのガラス玉に変わった時は、一人になるほうがまし!
恋人はいなくても、ときめきはちょっとしたところに生まれる。
ある夜、仕事を終わって、プラタナスの通りを一人歩いて帰る時、外国人の男性とすれ違った。
夜の薄闇のせいだろうか。深い眼差しに惹かれて、つい後ろを振り返ったら、彼もまた私を振り向いていた。
目と目を合わせ、にっこり微笑んで別れた。
夜は神秘だ。夜は美しい。
ツィゴイネルワイゼンを聴きながら眠る

夜、ブルーのドアを開けて帰った部屋で、ゆっくりくつろぎながらワインを口に運ぶ。
至福の時。
昨日のことは忘れる。
明日のことは思い煩わない。
今あるこの瞬間、この幸せに浸る!
でも、時折、訳もなく哀しくてツィゴイネルワイゼンを聴く。
悲劇的な旋律に、鋭く胸をえぐられながら思う。
この世にたった一人ポッチの私。
でも、それも自分が選んだ人生。
自由と孤独はいつも隣り合わせだ。
私の白金一人暮らし、忘れがたい人生の1ページ。
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